俳句ポスト365結果発表

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第1回 2013年1月24日週の兼題

椿

  • よしあきくん一期一会の一句
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  • 天・地の俳句

天

松山の息吹きと思ふ椿かな
酔う太
 「椿」を市花とする「松山」への、この大らかなご挨拶句を、記念すべき第一回「天」の一句に推させていただきましょう。
 久しぶりに訪れた「松山」を言祝いでの一句、遠い地に咲く「椿」を眺めての郷愁、春を迎える松山人としての感慨など、鑑賞はいかようにも膨らみます。「松山の息吹きと思ふ」までは作者の思いしか語られていないのですが、下五「椿かな」の詠嘆が目に入ったとたん、読者の脳裏にはつぎつぎに開いていく「椿」が早送りの画面のごとく鮮やかに広がります。その映像を想起させる力となるのが中七「息吹き」の一語。何万何千という「椿」が明るい「息吹き」を咲かせる頃、子規の愛した「松山」は最も美しい時期を迎えます。

地

綾取りの川から琴へ花椿
神楽坂リンダ
 「綾取りの」一本の紐が「川」となり「琴」となっていく変化をクローズアップの画面で見せておいて、下五「花椿」の鮮やかな赤へ切り替える映像的作品。「綾取り」を冬の季語として採録する歳時記もありますが、この場合は「綾取り」の紐の動きを活写することで「花椿」の豪奢な赤を印象的に描こうとしているわけですから、季重なりを指摘されたとしても全く気になりません。「綾取り」の赤い紐の動きとともに、「綾取り」をする人物の艶やかな着物の袖口までもが見えてきたかのようで、大変惹かれた作品です。
ややこれがかの碧梧桐椿かや
めろ
 「赤い椿白い椿と落ちにけり 河東碧梧桐」へ捧げるこの句も愉快なご挨拶です。「ややこれが」という大げさな言い方、「〜かや」のとぼけた問いかけにも味があります。「赤い方から落ちていくのが椿の生き方なのでしょうか?」という作者のコメントは何やら意味深。
玉砂利に雨のしみこむ椿かな
とりとり
 「伊勢神宮」での一句とのことですが、「玉砂利」の一語から神社の境内がありありと想像されます。「玉砂利」「雨」のモノトーンの映像から切り替わる「椿かな」の下五は、雨のしずくに濡れた真っ赤な椿に違いありません。
 同時投句「とめどなく椿の落ちる日なりけり」「神島のフェリー乗り場の白椿」も心に残りました。
霊柩車椿へ触れて止まりたる
松本だりあ
 「霊柩車」の黒に対して白椿を想像してもよいのですが、葬式で黒白ではちとつまらない。真っ赤な「椿」に触れる位置まできて、止まったという一点に作者の感動を感知したい一句です。「椿に」ではなく「椿へ」という助詞の効果は一長一短。椿に近づいていって止まったという僅かな距離のニュアンスを表現したかったのか、と好意的に受け止めました。
落椿ひとつ火口の静まりぬ
樫の木
 椿がひとつ落ちてその後に静けさがくる、という発想の句は幾らでもありますが、「火口」の一語が入ることで「静まりぬ」という言葉のイメージが重層的に広がります。
 「学生時代に旅行した萩市の笠山(火山)の椿の群生地を思い出して作りました。松山市でなくてすいません。」とのコメントも添えられていましたが、いえいえ、さまざまな土地のさまざまな句が集まってくることもこのサイトの大きな楽しみ。各地の風物を詠んだ句もどんどんお寄せ下さい。
熱の子の家赤椿赤椿
初蒸気
 同級生の家の前でしょうか。「熱の子の家」という表現には少し突き放した感じがあります。気になるんだけど、訪ねて行くというほどでもない、そんな感じ。「熱」の一語に対して「赤椿赤椿」と畳みかける手法に静かな迫力があります。
窓ぢゆうが空であるなり山椿
ローストビーフ
 「窓ぢゆうが空」というのですから大きな大きなガラス窓を想像します。さらに「〜であるなり」と断定されると、「窓」に近づきつつしげしげと「空」を見上げる気分になりました。そして最後に「山椿」という季語が出現したとたん、私の眼下には「山椿」の森が広がり、嗚呼この窓はこんな高いところにある窓だったのかというささやかな感動が生まれました。
 作者は「空でありたり」という表現がいいかなと迷ったようですが、断定の助動詞「たり」は体言にしか接続しませんので、同じ断定の助動詞「なり」(体言、用言の連体形などに接続)ならば文法的な問題が解消します。
赤深し日本語学校の椿
雨月
 いきなり「赤深し」から始まる一句。何の赤だろうと思った瞬間、「日本」という単語が目に飛び込むため、一瞬日の丸の印象も脳裏を過ぎります。上五で「赤深し」と言い切った点は勿論ですが、「日本語学校の」と長い言葉を費やしつつ、最後に「椿」と季語一語を浮かび上がらせる手法が、なんとも巧い作品です。
ころころと風の手毬や落椿
曲狸
 「落椿」に対する「風の手毬」という見立てや「ころころ」というオノマトペが分かり易すぎると感じる人もあるでしょうが、「落椿」が風に押されて転がるさまを素直に表現した点に好感を持ちます。季語の現場に立ち、「落椿」の転がるさまに作者の心が動いたという実感が嫌みなく伝わってきた一句です。
朝湯して乙女椿が当たりけり
ぼたん
 一読、露天風呂を思いました。湯舟に落ちてきたものが「乙女椿」だったとは、なんとも風流。名前の印象から、小さな花かと思えば、日本国語大辞典には以下のような解説がありました。【ツバキの園芸品種。観賞用として広く庭園に植えられる。花はやや大形の重弁花で、各片が少し内に巻き、中央部は小球状となり雄しべを持たない。色は白色、淡紅色など変化がある。】
 ある日の「朝湯」のこんな小さな事件が詩となり得る、それが俳句という短詩系文学の楽しさであります。

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