俳句ポスト365結果発表

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第4回 2013年2月14日週の兼題

日永

  • よしあきくん一期一会の一句
  • 初心者向け解説コーナー今週の俳句道場
  • 今週のお便り
  • 人・並選の俳句
  • 天・地の俳句

天

饅頭に人相のある日永かな
めろ
死んだ祖母さんは「饅頭」作りの名人でした。春になると祖母さんに連れられ、山にサンキラの葉を取りに行きます。「饅頭」の下に敷く葉の正しい名が「山帰来」だと知ったのは、俳句を始めてから。その赤い実の写真を歳時記に見つけ、懐かしく思い出しました。
 祖母さんの「饅頭」は、上品な味の餡子と美しい形が評判でした。村の人たちが「千代子さんの饅頭には品がある」と口々に誉めるを聞くのは子ども心にも嬉しかったものですから、春になって祖母さんに声をかけられると、やはりいそいそとサンキラを取りに行きました。祖母さんの「饅頭」と「日永」の頃の記憶が、この句の向こう側からぽっかりと現れてきたことが何とも懐かしい驚きでした。

地

永き日の鳩小屋に満つ鳩の息
神楽坂リンダ
 一読、餌の乾いた臭いと糞の臭いと鳩の羽ばたきの温い風が、一気に押し寄せ、想像力の豊かなワタクシと致しましては(笑)少々たじろいでしまいました。この生々しい感じを与えるのが下五「~息」という最後の押さえ。逆の言い方をすれば,「永き日」という季語の持つ心地と日射しが、下五「鳩の息」をありありと追体験させてくれるということでしょう。
 同時投句「永き日の読点となれ白ワイン」は、ぐっとお洒落にして機知に富んだ発想の一句です。
日永訳せばアルカイックスマイル
根子屋
 発想に軽い驚きを覚えました。「日永」という季語を訳すとすれば「アルカイックスマイル」であるという詩的断定が大胆。「アルカイックスマイル」とは【ギリシャのアルカイック彫刻にみられる、口もとに微笑を浮かべた表情。中国六朝(りくちょう)時代や日本の飛鳥(あすか)時代の仏像の表情をもいう】と辞書には解説してありますが、お釈迦様の涅槃の頃でもある季語「日永」と「アルカイックスマイル」、発想の原点はそんなところにあるのかもしれません。
虎の眼が覚めるを待つてゐる日永
てんきゅう
 動物園の光景でしょう。たしかに猛獣類って、いつ行っても寝てますから「虎の眼が覚めるを待つて」は誰もが共感するフレーズでしょう。「日永」は、どの時間帯を指すというものではなく、なんとなく日が永くなってきたなあ~という気分。「虎の眼が覚めるを待つて」と言いつつ、覚めるまで真剣に待つかというとそうでもなく、気が向けば次の檻に歩くともなく歩いていく、それもまた「日永」の心持ちでありましょう。
 同時投句「永き日の紙風船の気流かな」は、「紙風船」も春の季語ですから明らかに季重なりなんですが、この感覚に惹かれております。「空気の粒の一つ一つが緩んで間延びしたような感じが、私の『日永』のイメージです」と語るてんきゅうさんです。
瞬かぬハシビロコウと会う日永
亜桜みかり
 「ハシビロコウ」ってどんな鳥だったっけ?と、ネットで画像検索。おおおーアナタでしたか!と、のけぞってしまうぐらいの独特の風貌の持ち主でした。【全長約1.2m、体重約5kgの大型の鳥類である。巨大な嘴を持ち、獲物を狙うときは数時間にわたってほとんど動かないのが特徴】とありますから、確かに「瞬かぬ」…なのでしょう。「虎」が眼を覚ますのを待つ時間もさることながら、「ハシビロコウ」が獲物を捕るまでの時間は、まさに「日永」か(笑)。「ハシビロコウ」という長い名前を中七にストンと入れての手法が軽やかにして巧みです。
永き日の峠に行かん城を見に
酔う太
 一瞬、子規さんの句ではないかと思いましたが(笑)、少し古風で穏やかなこの世界もまた「永き日」ですねえ。中七で「峠に行かん」と意志を語り、なぜ出かけていくかというと目的を下五で「城を見に」と語り添える呼吸が、季語「永き日」にほのぼのと似合います。季語の持つ時間と心のゆとりが、中七下五のフレーズにそのまま生かされた気負いのない一句です。
 同時投句「バクに草食べさせてゐる日永かな」も動物園の光景でしょうか。皆さん「日永」には動物園吟行にいくようですね(笑)。
永き日の墓地に箒の女かな
大五郎
 この「墓地」に入ってきた時、「女」は確かにあの場所で「箒」を持って地面を掃いていたのに、墓参を終えてまたここまで戻ってきてみると全く同じ場所を同じように掃いている、という光景。訝しく思う気持ちと、その「女」に対する興味ともいえない…ささやかな引っかかり。漱石の小説の中にこんな場面があったのではないかと妄想させられた「永き日」の一点描であります。
門前に餅焼く家業日永し
あねご
 「門前」という場所の映像、「餅焼く」匂い、「家業」として餅を焼いている人物。これらが「日永し」という下五の世界の中、まるで書き割りのごとくに立ち上がってきます。山門を目指して上がっていく人、餅を買う人、冷やかして過ぎて行く人、遍路の一団。読み手の脳裏で、さまざまな人物が次々に動き出していくさまは、見事な一行のト書きのような味わいの一句です。
一日で「猫」読み終ゆる日永かな
八木高穂
 「猫」とは、夏目漱石著『我が輩は猫である』でしょう。何の予定もない休日の「日永」、久しぶりにこれでも読むかと手にとった一冊。「日永」という時間のイメージを含む季語との取り合わせは、近いといえば近いのですが、作為や嫌みのない宜しき近さ。ごろりと寝転がって読んでいる作者の傍らには、愛猫も長々と寝そべっていたのではないか、と思えてきます。
永き日の耳鳴りに詞を付けてみん
ハラミータ
 ワタクシも時折「耳鳴り」に悩まされますが、それは不快なものの代名詞の如き症状であって、音楽とはほど遠いものです。その「耳鳴り」をメロディーだと聴き止め、ならば「詞」でもつけてやろう、と言い放つのですから、愉快というか、お見事というか!「永き日」ののんびりとした気分が生んだ発想でありましょうねえ。
スプーンの中の世界の日永かな
紗蘭
 この発想も全く想定外のものでした。手にあるのは一本の「スプーン」のみ。その「スプーン」に映り込んでいるのは、歪んだ私の鼻、歪んだティーカップ、歪んだテーブル、歪んだ部屋、そんな世界の中では「日永」という時間も歪んでいるのでしょうね。こんなモノに「日永」の心地をキャッチする中学生俳人の感覚、侮れないなあ!

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