俳句ポスト365結果発表

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第192回 2018年3月22日週の兼題

  • よしあきくん一期一会の一句
  • 初心者向け解説コーナー今週の俳句道場
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  • 人・並選の俳句
  • 天・地の俳句

天

蟻吸ひつ蟻を放ちつ穴しづか
一阿蘇二鷲三ピーマン
「蟻」がしきりに出入りする「穴」の様子を、「穴」自身が吸い、「穴」自身が放つのだと見て取った詩的把握が秀逸です。「穴」そのものが一つの大きな生き物であるかのように感じ取る。それはまさに、この生き物の生態であり大きな特徴でもあります。
蟻の巣は、横穴と縦穴を繋いで無数の部屋が広がっています。食料貯蔵庫、幼虫を育てる部屋、女王蟻の居室等、全てが種の保存という一つの目的のために、機能的に意図され配置されているのです。ひょっとするとこれらは蟻自身の考えで行われているのではなく、「穴」というモノが創造神の如き意図を持って「蟻」たちを操っているのではないか。そんな想念から生まれた一句かもしれません。

地

光る蟻光らぬ蟻を押しのける
とりとり
季語「蟻」に遭遇すると、俳人たちはじっと観察しないではいられなくなります。「光る蟻」「光らぬ蟻」は、その観察眼がとらえた見事な詩的把握です。てかてかと黒光りしている蟻は、若い蟻か、はたまた旺盛な働き盛りの蟻か。かたや、艶を失っている蟻は動きも鈍く、精気に欠けるように感じたのでしょう。「光らぬ蟻」を死んだ蟻と読む可能性も否定はできませんが、蟻たちが右往左往と餌の回りに群がってくるその中に「光る蟻」「光らぬ蟻」がいると読んだほうが、蟻の生態がリアルに見えてくるかと思います。
そして下五の複合動詞「押しのける」。どちらもの蟻の様子を活写しつつ、犇めき合う何百もの蟻も想像させる見事な描写です。
(以上ここまで、気持ちはダブル「天」なので、選評は同じ300字で書かせていただきました。)
蟻突つけば突ついた棒によじ登る
ギボウシ金森
イタズラするつもりで、群がっている「蟻」を「棒」で突いたのでしょう。すると「蟻」たちは平然とその棒をよじ登ってくるのです。そのまま棒を握っている手元まで登ってくるのではないかという小さな恐怖。子どもの頃に体験した人もいるのではないでしょうか。むろん、私も経験があります。そこが共感を誘うのです。
うつとりと蟻が骸を舐めてゐる
クズウジュンイチ
我が肉眼で「蟻」の貌がはっきりと見て取れるわけではないのですが、何かの「骸」に集まっている「蟻」を見ていると確かに恍惚たる表情をしているように感じる。その感覚を表現した「うつとり」という言葉に惹かれます。下五も、囓る、食べるではなく「舐めてゐる」がまさに、うっとりの感覚。
ぎちと咬むたび上がりをり蟻の尻
このはる紗耶
こちらは咬んでいます。「ぎち」というオノマトペが、獲物を咬み切る強い歯の力を思わせます。何よりもスゴイのは、「咬むたび」に「蟻の尻」が上がるという肉体的連動を発見したこと。いや、そこに連動があるに違いないと詩的に把握したところが見事です。
三日目にやうやう細る蟻の列
あいむ李景
たった十七音の俳句に時間経過を詠み込むのは至難の業ですが、いともカンタンにやってのけています。「三日目」ということは、一日目からこの「蟻の列」を眺め続けているということ。三日間をかけて「やうやう細る」のですから、今回の獲物はどれだけの大きさだったのか、どんな獲物だったのか。想像が広がります。
「やうやう」細ったものの、さらに四日目も五日目も、最後の一欠片まで蟻たちは運び続けるのでしょうね。
蟻運ぶ蟲のパーツの2から6
笑松
「蟻」たちが運んでいるのは「蟲」です。その死骸を運ぶことのできる大きさに切り離して運ぶ、というのは当たり前ですが、「パーツの2から6」と表現したところが愉快。解体にも「蟻」たちならではの、手順とコツがあるんだろうなと改めて思いました。
パーツ1は、もう運び終わったのかな。大きすぎるのでは、これは最後なのかな、と色々想像も楽しめました。
埃浮くテレビの台へ蟻がきて
こなぎ
こんな光景を見たことがあるなというアルアル感。昭和の頃の「テレビ」は立派な「台」がついていました。そこはいつ見てもうっすらと「埃」がたまっていたように思います。なぜ「テレビの台」へ「蟻」が集まってきてるんだろうと、怪訝な気持ちで覗き込んだことがあるような気がする。それが昭和という時代の手触りにもなっている一句です。
蟻一匹ギプスの闇を覗きけり
露砂
「蟻一匹」のクローズアップから、「ギプス」が出現し、蟻の視線として「ギプスの闇」という表現が引き出されてきます。下五「覗きけり」は蟻自身になりきっての巧い擬人化。一体この隙間はなんだろう?と蟻は首をかしげているのでしょう。好奇心の強い蟻が「ギプスの闇」に入っていったら、この人大変だよ!と想像すると、ますます面白くなりました。
蟻を焼くコールタールの匂ひ立つ
キッカワテツヤ
一読、子どもの残酷な遊びを思い出しました。虫眼鏡で太陽光を集め、黒い「蟻」を焼いて遊ぶというヤツです。私はやったことはありませんが、男の子たちがやってるのを横目で見た記憶が蘇ってきました。その時の匂いが、作者の記憶に刻まれているのではないか。そうだ、あれは「コールタール」の匂いだった、と。無邪気な残忍さもまた「コールタール」の匂いがする行為なのかもしれません。
涙腺はすでに燃えかす蟻をみる
Y雨日
なんで泣いているのかは分かりません。死別の涙か、失恋の涙か。とにかく泣いて泣いて泣いて「涙腺」は乾き果て、目の周りはぼったりと充血し、それでも泣きたい。でももう一滴もでない。中七「すでに燃えかす」が独自の感覚であり、詩的リアリティを持った表現でもあります。
涙の尽きた「燃えかす」の「涙腺」を持った目で、ぼんやりと足下の「蟻」を眺める。こんな日の蟻を私も眺めていたことがあったに違いない、という強い追体験をさせる力のある作品です。

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