俳句ポスト365結果発表

  1. TOP >
  2. 結果発表 >
  3. 枇杷の花

第208回 2018年11月1日週の兼題

枇杷の花

  • よしあきくん一期一会の一句
  • 初心者向け解説コーナー今週の俳句道場
  • 今週のお便り
  • 人・並選の俳句
  • 天・地の俳句

天

水汲めば仄かに濁り枇杷の花
樫の木
「水」を汲んでみると、水底の砂を巻き上げて「仄かに」濁った、という状況を描いた句は幾らでもあります。が、この上五中七の詩句に季語「枇杷の花」が取り合わせられたとたん、一句は化学変化を起こします。季語「枇杷の花」は、咲いてるのかどうかも分かりにくい地味な花。誰かが汲むことによって濁るという状態が生じる「水」。それはまるで地味な「枇杷の花」が咲きいづるような仄かな濁りと光なのですよ、「枇杷の花」とは仄かに水を濁らせるように咲く花なのですよ、と一句は語りかけてきます。言葉と言葉が出会うことによって生じる詩という名の火花を楽しむのが、取り合わせという手法。仄かなものであればあるほど、慈しみ深い美しさを持つ。それもまた俳句という文芸の滋味というものです。

地

びわのはなとおれませんとかいてある
ゆいのすけ3さい
「びわのはな」が咲いている田舎道かな。野の枇杷ならば山道かもしれません。細道をたどっていくと、この先は「とおれません」と書いてある看板があったのでしょう。小さな経験から紡がれた現場証明のある俳句。平仮名をかさねた表記も内容に似合っています。
ほけん室のベッド広くてびわの花
幸の実(9才)
体調が悪くて訪れた「ほけん室」。しばらく横になりましょうね、と優しい養護の先生が用意して下さった「ベッド」。でもその寝床は妙に「広く」感じて落ち着かないのです。保健室の窓辺から見えるのは「枇杷の花」。花のくせにキレイじゃないよな、と思いながら見上げているのかもしれません。
枇杷の花なら見てゐられさうな予後
一阿蘇鷲二
「予後」とは、病気や手術の後、どの程度回復するかという見通しを指す言葉です。予後が良いとか悪いとか、というふうに使います。派手で賑やかな花を眺めるだけの力はないが、「枇杷の花」みたいに咲いてるのだか咲いてないのだか分からないような花ならば「見てゐられさうな」という言い方に、「予後」なるリアリティがあります。語順もしみじみ巧い。これも天に推したかった句です。
枇杷の花吐きだしてゐる樋の口
比々き
枇杷は比較的背の高い木ですから、梢に咲いている花たちが屋根の上にも落ちてきます。落ちた花々が雨に流されて「樋」の中から吐き出されているのです。「吐きだしてゐる」という措辞は、まさに写生の力。下五「樋の口」というクローズアップの映像が見事です。
枇杷の花サンスクリット語で香る
蟻馬次朗
「サンスクリット語」とは、古代インドの文学語で梵語ともいいます。あの地味な「枇杷の花」の思わぬ香りを詠んだ作品も多々ありましたが、「サンスクリット語で香る」という比喩は面白い。古代インド文学のように香るという把握が、「枇杷の花」の寂しげだけれど、只者ではない感じをうまく表現しています。
駱駝の子目覚めるやうに枇杷の咲く
三重丸
「枇杷の花」は、よく見ると毛むくじゃらの印象。灰褐色の産毛のようなものに包まれ、辛うじて咲いているという印象の花です。一気に「駱駝の子目覚めるやうに」と畳み掛けてくるのが、この句の魅力。そういわれるとそんな気がしているのが、比喩の強みというヤツです。
枇杷咲けり蟲の卵の孵るかに
古都ぎんう
同じ比喩でも、クローズアップの映像。「枇杷咲けり」という映像を「蟲の卵」と喩えた眼力が見事。確かにあの花々は、まるで「蟲の卵」のような色と形状をしている。「虫」ではなく「蟲」の表記も怪しげです。枇杷の花ならではの様々な比喩を楽しませてもらってます。
花枇杷を苛むに清潔なペン
Y雨日
「花枇杷」を「ペン」でスケッチしている光景を思いましたが、文章として書き記そうとしていると読んでもよいでしょう。花というにはあまりにも醜い「花枇杷」を一体どう表現したらよいか。「苛む」という言葉が、こんな美しく表現されていることにうっとり。「清潔なペン」という詩語が、この句の一番の魅力ですね。これも天に推したかった作品。
枇杷の花小鳥1の役に決まったよ
座敷わらしなつき(7才)
「枇杷の花」の咲く頃の発表会でしょうか。クラスで演じる劇の役どころは「小鳥1の役」。1があれば、2も3もあるのでしょう。口々に「枇杷の花」を苛む役か。はたまた慰める役か。醜いアヒルの子のような「枇杷の花」をめぐる小鳥たちのおしゃべり。どんな劇なのかと想像が広がります。
弟の夢兄の意地枇杷の花
あみま
神話の世界にも兄弟はよく出てきます。海彦山彦もそうですし、カインとアベルもそうです。神話と読んでも人間と読んでも、「枇杷の花」との取り合わせが、地味にして滋味。「弟」は純粋に「夢」を追い、「兄」は年長者の「意地」として己に鞭打つ。「枇杷の花」は神話の世界から現在まで、さまざまな兄弟の生き様を眺めつつ、静かに咲き続けているのです。
ゴーガンの女は勝手枇杷の花
大雅
「ゴーガン」は、後期印象派を代表するフランスの画家。大胆な装飾的構図や色彩が特徴の画家「ゴーガン」の描く「女」たちの傍らには、いつも枇杷の実が彩られているような印象があります。
それにしてもこの句、タヒチ島やドミニカ島の色彩のイメージと、日本的な「枇杷の花」のミスマッチが心にひっかかってしかたありません。「ゴーガンの女」が勝手なのではなく、彼自身の生き方がずいぶん「勝手」だったのではないか。そもそも「ゴーガンの女」とは、彼が描いた女たちなのか。彼と出会い翻弄された女たちなのか。そんなことを考えながら、「ゴーガン」の一生を読み耽っていたら、思わぬ時間が過ぎていました。
なぜこの句に惹かれてしまうのか、明確な説明ができないまま、句の世界に溺れてしまう。それもまた作品の力なのでしょう。いつか私にもうちょっと分析する力が身についたら、この句の魅力を客観的に語れる日がくるかもしれない。それまで、ひそやかな愛唱句として心にとめておきます。

ページの先頭