俳句ポスト365結果発表

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第221回 2019年5月30日週の兼題

空蝉

  • よしあきくん一期一会の一句
  • 初心者向け解説コーナー今週の俳句道場
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  • 人・並選の俳句
  • 天・地の俳句

天

出て行つて空蝉少しだけ閉まる
牟礼あおい
「空蝉」の一物仕立てですが、実際に観たというよりは、乾いた「空蝉」の背の僅かな切れ目を見つめていて、この瞬間に思いが至ったのではないかと感じました。この小さな割れ目から蝉は体を捩るように「出て行つて」、まだ柔らかさの残る殻が小さく撓み「少しだけ閉まる」。まるで科学番組みたいな映像ですが、感情を一切排し描写だけに徹底することで詩を産み出せるという見本のような作品です。「出て行つて~少しだけ閉まる」という叙述だけ取り足せば完全な散文。「空蝉」の一語が季語の力だけで立ち上がっている。そこにこの句の秘密と魅力があります。一句を読み終わった瞬間、私の耳には蝉の殻が小さく軋む音が聞こえてきたような気がしました。その虚の音こそが「空蝉」という季語の正体かもしれないと。
同時投句「何も彼も空蝉の外みづを買ふ」にも心惹かれました。「空蝉」の中という極小の空間と「空蝉の外」という果てしない空間が、半透明の殻を通して触れ合っている事実。「みづを買ふ」行為がこんなカタチで詩になるのか、という驚きもまた。

地

空蝉のまだ恍惚と湿りたる
一斤染乃
羽化した蝉が抜け出した後の「まだ~湿りたる」という状況を「恍惚と」と表現。「空蝉」自体に、蝉の命の名残がしばしとどまっているかのような感覚にもなりました。羽化という変容の不思議も恍惚と私たちの前にあります。
空蝉を幹より外すかりつと鳴る
一阿蘇鷲二
「空蝉」というものは、時間とともに「幹」の一部になりたがっているのかもしれないと思いました。その「空蝉」を「幹より外す」と「かりつ」と音がする。それはささやかな抵抗の音かもしれませんし、生物から無生物となった証拠の音かもしれません。
空蝉をかりかり猫はやはらかい
すりいぴい
落ちた「空蝉」を「猫」がかじっているのでしょう。上五の助詞「を」の働きと「かりかり」というオノマトペで、その状況はありありと伝わります。「空蝉」の硬さと、抱き上げた「猫」の柔らかさの対比。下五の後の余白が、「空蝉」というモノの感触をリアルにします。
空蝉の百の目くすくす瓶に充つ
漢方薬店に並べられている「瓶」の中に「空蝉」がぎっしり詰まっている様子を思ってもよいのですが、「空蝉」を好奇心で集めている「瓶」ではないかと読みました。なぜそのように感じたのだろうと言葉を見直していくと、「くすくす」という一語の明るい語感にその理由がありそうです。なんとまあ、こんなに集めて!と呆れつつ面白がっているような感覚が「くすくす」ではないかと。「百の目」と焦点を絞った点、「充つ」という漢字も意図が伝わる選択です。
空蝉を給湯室に置いたまま
花伝
「給湯室」の一語で場所と状況が想像できます。私は会社を思いました。お客さんに出すお茶を淹れようと「給湯室」に入ってみると、そこに「空蝉」が置かれている。一体誰が拾ってきたのだろう。「空蝉」との意外な出会いが、この日の小さな出来事として記憶されます。切れのない「~まま」という終わり方も巧みです。
空蝉はキャラメルコーンより軽い
亀田荒太
比較してみるところにも詩は生まれます。「空蝉」を手にしてみると「軽い」と思う。大きさといい色といい感触といい「キャラメルコーン」に似ていると思ったのは、一つの詩的発見です。さらに「~より軽い」という描写のリアリティに共感。まさか味まで比べたりはしてないでしょうね(笑)。
空蝉に噛まれ神社が恐かつた
蟻馬次朗
「空蝉」が噛みつくわけではないのですが、「空蝉」を手に取ろうとした時、尖った脚の先端が指を刺したのではないかと想像しました。小さな子どもの頃の小さな出来事が、「神社が恐かつた」という記憶となって刻まれます。「神社」の周りの鬱蒼たる森や、得体の知れないものを祀っている空間そのものもきっと「恐かつた」に違いありません。
空蝉や人間は死んだら重い
玉庭マサアキ
この句も一種の比較です。蝉という命が抜け出した殻である「空蝉」はこんなに軽いのに、「人間」は「死んだら」ずっしりと重くなるらしい。いや、こんなに「重い」のだという実感と読んでもよいでしょう。「空蝉や」の強調が中七下五のフレーズとのバランスをうまく取っています。
同時投句「空蝉がおとなしさうな木に並ぶ」にも心惹かれました。
狒狒の手にむしられ空蝉の葉ごと
ウェンズデー正人
何かの枝や幹に「空蝉」がついたままで、折られている焼べられている、という発想の句は幾つかありましたが、「狒狒」の餌となる「葉」の裏にくっついている「空蝉」という状況にオリジナリティとリアリティがあります。ジャングルとかではなく、動物園ではないかと。「狒狒の手」をじっくりと観察できていることもその理由ですが、「むしられ空蝉の葉ごと」むしゃむしゃ食べ始める姿が、檻の目の前にあるような映像です。
空蝉とよぶには崩れすぎてをり
古瀬まさあき
落ちたり踏まれたり潰されたり、さまざまな理由で「崩れ」てしまっている「空蝉」です。辛うじて「空蝉」であることが分かる形と色と感触。淡々と描写しているからこそ、この現実性を獲得できているのでしょう。「崩れすぎてをり」の措辞も的確です。
空蝉のはさまっている排水口
星埜黴円
雨に打たれて落ちた「空蝉」が、「排水口」に「はさまっている」のです。公園の手洗い場、水飲み場のような場所を想像しました。前夜の雨が激しかったのでしょう。何気なく呟いているかのような「はさまっている」という措辞ですが、映像として実にリアル。さすがの描写力です。
空蝉の減らぬ静かな少年院
倉木はじめ
「空蝉」がやたらと張り付いている木々が並ぶ「少年院」。小さな運動場でしょうか。二階の窓から見える樹木でしょうか。「空蝉」を手にしたり、集めたりする子はいない「少年院」だと読んでもよいですし、「空蝉」というモノに「少年院」に暮らす少年たち自身を重ねて読んでもよいでしょう。「静かな」の一語に、作者の思いが読み取れます。
同時投句「空蝉を潰して待機児童かな」も社会派の一句。
空蝉や人はゆつくり空になる
はなまる
「空になる」を最初「そらになる」と読みましたので、亡くなって空へ上る=空になる、という意味かと思ったのです。が、「空」は「から」と読むべきではないかと考え直しました。「人はゆっくり空(から)になる」と。痴呆という意味で記憶がゆっくりと空になっていくのかもしれませんし、終末医療の現場では点滴のみで生き続ける人たちもいて、それはまさに肉体が空になっていくことかもしれないと。蝉の時間と人間の時間。その長短はあるにしろ、みな生き物は「ゆつくりと空に」なって静かに死を受け入れるのです。

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