俳句ポスト365結果発表

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第233回 2019年11月28日週の兼題

冬眠

  • よしあきくん一期一会の一句
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天

熊胆のごとき太陽冬眠す
まこちふる
季語「冬眠」は動物の季語。ゆえにどうしても「冬眠の○○」と蛙や蛇などの生き物を書くことになりがちです。それはそれで全く良いのですが、せっかく皆で挑むのですから、季語「冬眠」とストレートに向き合っている句を選びたいと考えておりました。
さて、掲出句の「熊胆」とは「ゆうたん」と読みます。文字通り熊の胆嚢。漢方薬です。中屋彦十郎薬局HPには、以下のような解説がありました。【第三類医薬品、熊胆は「薬性論」に「小児の五疳を主治し、虫を殺し、悪瘡を治す」とあり、唐本注、神農本草経にも収載されている。冬期間にとれた熊の胆は匂いがしない。射殺したクマから血液や脂肪の夾雑物が入らないように胆嚢を取り出し、これを冬期間陰干しにするとカチカチに固まる。これが生薬の熊胆で、不透明黒色の固い塊である。多くは卵球形である。一種の香気があり、味はきわめて苦い。】
この文章を読めば「熊胆のごとき太陽」がどのような太陽か、想像がつきます。不透明で黒色の塊、卵球形の太陽です。生き物たちが「冬眠」する小さな穴から見える太陽はこんな印象なのでしょうか。あるいは、厳寒の暗い雲の向こうにある太陽を作者の心がこのように感じ取ったのかもしれません。
「熊」の一字と「冬眠」が良い意味で響き合いますし、「熊胆のごとき太陽」の比喩は冬という季節の感覚にも合致します。一種の香気があって、味はきわめて苦い。「冬眠」する生き物たちにとって、「太陽」とはまさにそういうものではないかと、この比喩の力に脱帽します。

地

冬眠の亀呼んでみる日課かな
鹿本てん点
「冬眠の亀」に声をかけるという「日課」は、手持ちぶさたな日々とも、春を待つ心とも読めます。水槽の「亀」か、公園の池の「亀」か。「日課かな」の詠歎がのんびりとゆったりと。
「理事長」と子らが呼ぶ亀冬眠す
宗貞
なんてったって、このニックネームが面白い。理科室や教室で飼っている「亀」でしょうか。「亀」の顔が、学園の理事長に似てたのかもしれません。「理事長が冬眠しちゃったんだよね」なんて話してる子どもたちを思うだけで、可愛くて可笑しい。下五「冬眠す」も飄々たる語りです。
冬眠の蛙と横の横の蛇
あみま
「冬眠の○○」と生き物の名前を入れると季重なりになるのでは、と躊躇した人たちも多かったようですが、「冬眠」という季語の特質として、「冬眠の蛙」のような使い方は当然でてきます。が、それを逆手にとって二匹も入れてくるとは、天晴れです!
冬眠の土の中には、蛙の穴もあり、その「横の横」の穴では「蛇」もグルグルと己が身を巻いて眠っているに違いありません。俳句における工夫というのは、幾らでも有るのだなあと愉快になった一句です。
山割れば曼陀羅の如冬眠図
野々りんどう
こちらも地中を想像しているわけですが、「山割れば」という発想がダイナミック。中七「曼荼羅の如」は時折見る比喩ですが、まさか山を真っ二つに割った「冬眠図」だなんて思いもしませんでした。この句を誰か、幻想的な日本画にしてくれないかと、そんな妄想も抱きました。
永仁の壺の形に冬眠す
森一平
「冬眠」している獣を、勾玉に喩えたり、月に喩えたりする発想はありましたが、「永仁の壺」が出てくるとは思わなかった!
以下、ネット事典に載っている「永仁の壺事件」について。【1959年(昭和34年)、「永仁二年」(1294年)の銘をもつ瓶子が、鎌倉時代の古瀬戸の傑作であるとして国の重要文化財に指定された。しかしその直後からその瓶子は贋作ではないかという疑惑がもたれていた。この瓶子は結局、2年後に重要文化財の指定を解除されることとなり、重文指定を推薦していた文部技官が引責辞任をするなど、美術史学界、古美術界、文化財保護行政を巻き込むスキャンダルとなった。件の瓶子は実は陶芸家の加藤唐九郎の現代の作であったということで決着したが、事件の真相についてはなお謎の部分が残されているといわれる。】
「永仁の壺」の形をして「冬眠」しているのは、蛇だろうか蛙だろうか。謎の残る贋作事件も、そのまま冬眠してしまったかのような今のところの決着。「冬眠」が覚める時、この「永仁の壺の形」の生き物は、どんな形となって地上に出てくるのでしょうか。
冬眠の蛙は鶏へ放りやる
一阿蘇鷲二
裏庭の畑を耕しているのでしょう。鍬の先に転がりでてきたのは、「冬眠の蛙」。それをポイと放し飼いの「鶏」の方へ投げるのです。下五「放りやる」は繰り返されている日常の動作を思わせます。季語「冬眠」に対して、二つの生き物を出現させ、実景を描写しつつ、破綻してない。見事な底力です。
蛇かなし真珠のやうに冬眠す
RUSTY
いきなり「蛇かなし」! と思った瞬間にでてくる「真珠」の一語にハッとします。感情語「かなし」が、「蛇」と「真珠」を結びつける。そこに美しい言葉の火花が飛び散ります。さらに「真珠のやうに」と比喩へ展開。その比喩が「冬眠す」に対するものだと分かった時の詩的興奮。青白く眠る蛇の肌。「かなし」という感情は「蛇」にも「真珠」にも「冬眠」にもひたひたと及んでいくような静かな迫力があります。
冬眠のひかりうしなふまへのいろ
「冬眠」する生き物の、例えば蛇の鱗の「ひかり」なのでしょうか。眠りはじめる「まへ」の眼の「ひかり」でしょうか。あるいは「冬眠」という行為そのものを指すのでしょうか。さまざまな「ひかり」と「まへのいろ」を想像させられて、この句の周辺を、うっとりと彷徨っているかのような心持ちです。
灯が曇るこれが冬眠なのだろう
神山刻
「冬眠」する生き物になりきっての呟きでしょうか。まるで自分が水槽の亀になったような気がしてきました。あらぁ? なんだか「灯」が曇っているように見えるよ。眼の前に膜があるような。そうか「これが冬眠」というものなのだろう、と呟きつつ眠りに入る亀。そんなことを思いつつも、虚の「冬眠」に入っていく、作者自身の心のようにも思えてきて。
同時投句「冬眠の蜜のかかつてゆく体」にも心惹かれました。
冬眠は春のスウプを煮るやうに
あるきしちはる
「冬眠」をしている生き物の気持ちになって詠む句もあれば、「冬眠」とはいかなるものかについて、詩的定義する発想もあります。「春のスウプ」をゆっくりゆっくり「煮る」ように、ゆっくりゆっくり春を待つ。それが「冬眠」という行為なのですね、きっと。
冬眠やわたしを忘れぬための旗
綿井びょう
「冬眠や」と強調し、カットを切り替えた後の「わたしを忘れぬための旗」とは一体何でしょうか。この「冬眠」とは、虚実のはざまに漂うものなのだろうと感じます。「わたし」の存在を皆が忘れないように、いや私自身が「わたし」という存在を見失わないように立てた小さな「旗」。今この「旗」は、とろんと冬日に垂れているのでしょうか。

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