- 実むらさき千年つづく鈴祓ひ
- 龍田山門
- 「実むらさき」は「紫式部」の傍題。その名前から、『源氏物語』の作者紫式部を思わないではいられません。紫式部が生きた平安時代は千年前。その「千年」というキーワードを巧く使って、下五「鈴祓ひ」を取り合わせました。「鈴祓ひ」とは、神社における祈祷の際、祝詞の後に鈴を使って行われるお祓い。清らかな鈴の音が、人々の穢れを祓い、心身を清浄にするといわれています。
試みに上五を「紫式部」に替えてみると、傍題がいかに生かされているかが分かります。「実」の一字が「鈴」の形状にもつながり、「むらさき」の印象が「千年」前に『源氏物語』を書き残した一人の女性の存在を匂わせます。「千年つづく鈴祓ひ」を行う神社の片隅には、この秋も「実むらさき」が美しい実をつけているはずです。
- 実むらさき潰して色のなかりけり
- いさな歌鈴
- 「実むらさき」の実を「潰し」た経験はないのですが、確かに「むらさき」の汁がでるわけではないのだろうと思います。「潰して色のなかりけり」という淡々たる呟きが、一層「実むらさき」の紫色の美しさを思わせます。
- 夢に恋うひとへ実むらさきの礫
- はまゆう
- 「夢に恋うひとへ」という前半の措辞は、ややセンチメンタルに傾いているかとも思いますが、後半「実むらさきの礫」が見事にバランスを保ちます。「実むらさき」は詮ない恋人に投げる「礫」であるよ……とは、可愛くも切ない恋心です。
- 実むらさきさびしい人はむらさきに
- 小木さん
- 「むらさき」は高貴な色とされてきましたが、どこか淋しげな色でもあります。「実むらさき」=「さびしい」という感情を肯った上で、「さびしい人はむらさきに」という詩語に心を衝かれます。「さびしい人」たちの影が「むらさき」色に増えてくるような幻覚に襲われます。
- 実むらさき山の名前のかなしさう
- 花紋
- 「実むらさき」の美しい色と、ふと目にした「山の名前」が「かなしさう」という感情で結ばれたのでしょうか。どんな山の名前かしらと思いつつも、それを「かなしさう」と感じてしまう作者の心に寄り添いたくなってきます。その手に小さな「実むらさき」を手渡してあげたくなります。
- 球体になりたがるみづ実紫
- さるぼぼ@チーム天地夢遥
- 「みづ」が「球体」になるのは当たり前の事実ですが、「球体になりたがるみづ」と言い切ることで、ひょっとすると「実紫」も「球体」になりたくてこの形になったのでは、と思わないではいられません。わたくしの心の中にある寂しさや悲しさも「球体」になりたがっているのかも……。
- 実むらさき目の無い魚は泣けませぬ
- 小泉岩魚
- 「目の無い魚」は深海にいる魚たちでしょうか。泣くこともできない自分の心の比喩でしょうか。「実むらさき」を見つめていると、「目の無い魚」の哀しみに触れたような気がしたのかもしれません。「泣けませぬ」という語りに、濡れた諦観も読み取れます。
- 水晶体濁らばかへよ実紫
- まどん
- 我が眼球の「水晶体」が濁ったとしたら取り替えなさい、と呟く一句。悲しい恋に濁るのか、こらえがたい嫉妬に濁るのか。そんな心の濁りを思わせるのも、「実紫」=「紫式部」の連想ゆえかもしれません。命令形の切なさが読み手の心に響きます。
- 釈迦の目の埃はきれい実紫
- まこちふる
- 「釈迦」像の「目」にたまっている「埃」を拭おうとしているのでしょうか、ただただ見上げているのでしょうか。それとも「釈迦の目の埃」に比喩的意味を持たせているのかもしれません。その「埃」と「実紫」を繋ぐ「きれい」の一語が絶妙のバランスです。
- 実むらさき明るく鳥が死んでゐる
- 玉庭マサアキ
- 「実むらさき」のもとに「死んでゐる」「鳥」を見つけたのでしょうか。籠の小鳥が「死んでゐる」のに気付いたのかもしれません。「明るく」の一語は、「実むらさき」の形容でありつつ、「明るく~死んでゐる」という詩語をも構成します。「実むらさき」という季語の奥行きを垣間見たような一句です。