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DIARY

季語には詩情が宿っている

2023.04.21お便り

お便りを紹介します。
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●俳句はあくまで「詩」である。だから、そこには必ず「詩情」が無ければならない。夏井先生の俳句の批評コメントにも、よく「詩情」とか「詩語」という言葉が使われている。私がこの1年、中級以上に挑戦して来て、大した成果がなかったのは、もちろん表現技術の拙さはあるとしても、圧倒的に足りないのは「詩情」というものだと思い知らされた。これは努力云々より「持って生まれた天性の才能」なのかもしれないとも思う。もちろんそれは「色合い、方向性」も人により個人差があり、千差万別であることは確かであろう。何を以て「詩情豊か」と定義するかは、現実的には不可能と言ってもいい。私も「詩情」とは一体何なのだろうと、ずっと考え続けてきた。これまで考え続けた結果として、たどり着いたこととは「俳句の詩情とは「季語」そのものだ」ということである。俳句の季語にはそもそも詩情が宿っているのだ。それは時代、季節、時期、時間、時刻という時間軸と宇宙、地球、社会、地域、場所という空間軸、そして自然、人間、他の生き物たちが織り成す事象、現象、関係、感情などの全てが、万人の共感できる詩情として既に季語に備わっているということなのだ。俳句にとって季語は詩情のほとんどを担っている。季語以外の言葉とは、季語の持つ詩情を補い、助け、広げる、あるいは調味料として少し味付けする、という役割をすべきものだと思い至った。だからこそ俳句の季語は大切であり、主役でなければならないということなのだ。そう思って振り返ると、私のこれまでの俳句は季語を添え物の脇役として、季語以外のところで無理やり人間の感情を入れ込もうとしていたということに気付いた。だから季語の本来持つ詩情をむしろ他の言葉で打ち消していたのだ。まだまだこれからこの思いを具体的に表現できる俳句を作るには、かなりの時間がかかるとは思うが、この気づきに間違いはないと信じて俳句作りに邁進して行きたいと思う。/佐藤烏有
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※たくさんのお便りありがとうございます♪ 皆で楽しく読ませていただいています。

写真タイトル 松山城ロープウェーと桜

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