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DIARY

2022年を生きる私たちは…

2022.11.09お便り

お便りを紹介します。
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●このたび初めてお便りをいたします、井上のなめと申します。兼題「原爆忌」の結果発表、夏井先生が書かれた、原爆忌に対するお考えに共感いたします。原爆を体験した方が年々少なくなり、体験していなければ原爆忌を詠む「資格」がないとするならば、資格を持つ人はもはやほとんどいらっしゃらないでしょう。体験していないから詠まないとなってしまうと、今から20年後50年後100年後の俳人たちが、2022年の俳人たちがどのように原爆を捉えていたかを知る術が減り、無くなってしまうのではないでしょうか。それこそ俳句界だけでなく、原爆・核兵器・戦争等ひいては人類の未来のことを考えたり話し合ったりする上での大きな損失になるのでは、と思います。体験していないなら体験していないなりの、戦後77年経ったなりの、原爆忌の俳句を精一杯の気持ちで詠む。これが今を生きる俳人にできることではないでしょうか。もちろん詠む詠まないは強制されるものではありません。 そして、それは「原爆や戦争を体験したかのように詠め」と言っているものでもありません。戦争を体験した万太郎は「あさがほのはつのつぼみや原爆忌 久保田万太郎」という句を詠んでいます。彼は原爆を体験していないと思いますが、体験していない人なりのリアルな原爆忌の俳句です。戦争体験者が原爆忌をこのように詠んだと、2022年を生きる私たちは知ることができる。そこから様々な想像をすることができる。 たいへんな財産と私には思えます。 とりとめのない文章になりましたが、今回私の感じたことは以上です(見当違いなことや失礼なことを書いていたら申し訳ありません)。/井上のなめ
●「時事句は、類想句になりやすい。」おっしゃる通りかもしれません。しかし違う角度から見た時に、そのような思いを句に託すこともまた(句として評価されないとしても)意義深いことではないかと感じます。それもまた詩句の側面ではないでしょうか。日本の夏は、お盆や終戦など死生観とも向き合う時期でもあります。コロナウィルス蔓延やウクライナ侵攻に関しては、歴史の教科書に載るような出来事であり、そのような時代を生きた当事者として、その時事への思いや状況を自分でも確認し、また狭い範囲かもしれませんが投句として公表し、その時の空気を共有したり、後世に残したりすることの意義もあると思うのです。2022年のウクライナ侵攻は、核保有や原発論争など我々とも関わり深い難題もあり、日本にも避難されているウクライナの方もいらっしゃいます。決して他人事ではない、これからの日本人が考えるべき事象が多くあると感じます。/NOWARもとみな
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※たくさんのお便りありがとうございます。皆で読ませていただいています。

写真タイトル 道後温泉本館_霊の湯・三階個室
写真参照元 https://dogo.jp/download

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